水橋校の1年は、毎年12月30日に実施する中学3年生が対象の「晦日特訓」で締めくくられます (本当は3月の県立高校一般入試または国公立大学の後期日程試験が終わるまでは塾の1年は終わらないとも言えますが、それは今は措いておきます)。
晦日特訓は「1000問チャレンジ」ともいいます。毎年この日は朝の9時から夜の9時までたっぷり12時間、途中昼食と夕食を含め休憩を取りますが、水橋校のほぼすべての中学3年生が教室に缶詰めになって、5教科の文字どおり合計1000問の問題に取り組みます。高校入試は小学校と中学校で習うすべての内容を範囲としてたいへん幅広く出題されます。問題の難易度はさまざま。大多数の生徒が正解できるごく基本的なものから、ほんの一握りの生徒しか正解できないきわめて難しい応用問題まで。晦日特訓で取り組む問題はほとんどが基本的なものだけです。中学校を卒業して高校に進学するために最低限?必要とされる知識がいかなるものか、まずはそれをまる1日かけて確認してもらいます。そしてそれと同時に、今の自分が分かっていることは何で分かっていないことは何かを、多少とも痛みを伴う経験を通して知ってもらいます。年末の、本番の入試まであと2ヶ月ほどという時期にこれをすることで、今一度鉢巻きを締め直してもらう意図もあります。
晦日特訓に参加した生徒を見ていると、1000問という問題量の半端でない多さとともに、まずはみんな一様に、12時間というあり得ない?時間の長さに圧倒されるようです。それはそうでしょう。大人だってまる1日教室に缶詰めにされてこれをやれと言われたら心底ビビるのではないでしょうか。かく言う私自身、これをやれと言われて安穏としていられるとは到底思えません。まして昔と比べて忍耐力が大きく低下していると思われがちな今の子どもたちです (それはゲームのせいでしょうか? それともスマホやタブレットに代表されるような情報機器のせいでしょうか?)。彼らにとってのハードルの高さを思うと、やらせている張本人の私でさえ、果たして本当に彼らにできるだろうか?とか、早々と降参して逃げ出すのではないか?とか、いろいろなことを思って毎年ハラハラドキドキです。ところが実際にふたを開けてみると、10年以上続けてきていますが、(実に不思議なことに!) これまで途中で音を上げて逃げ出した子はただの1人もいません。これは正直驚くべきことではないかと思っています。人間の持っている力というのはまったく計り知れないものです。
親御さんはよく、これに限らずいろいろなことで、我が子にそんなことができるだろうか?とかできるわけがないと言って心配顔をされますが、そういった心配がほとんどすべての場合に当たらないことは、少し冷静になって思い返していただければすぐに分かることだと思います。子どもの成長を促す条件ということを考えてみると、それはほぼ、親が思いきって子どもに冒険をさせてやるということに尽きるのではないかと私は思っています (もちろん、上手くいかなかったときのバックアップを親がちゃんとするという覚悟を持って)。何事であれ上手くいく見込みが十分に立たなければ実際に事を始められない、我が子に始めさせることができないというのでは問題です。そんなことでは何かが実際に始まる前に生涯の終わりを迎えてしまう、気がついたらもう夢を追える段階ではなくなってしまっていたという、きわめて残念な人生を我が子に歩ませようとするに等しいと思えます。それは愚行そのものです。
そもそも成功とか失敗といったことにこだわる世迷言を並べて一歩も先に進まないよりは、たとえ何も分からないままであってもとりあえず手探りで歩き出してみて、その結果けつまずいて自分で死ぬほど痛い思いをするほうが、はるかに比べものにならないくらい得るものがあるというものです。痛い思いは進んでするべし、です。
死んで成れ このことを
おまえが会得できぬかぎり
暗いこの地上の
おまえは悲しき客人にすぎぬ
ゲーテ『西東詩集』平井俊夫訳、郁文堂から
商品経済が現実のあらゆる隙間という隙間にまで入り込んでものを言っている現代という時代の大きな弊害の1つは、私たちの誰もが自分を「客」と思いがちなところなのかもしれません。客とは受け身なものです。それはどこからか与えられるサービスを待ち受けるだけで、自分からは何もしません。まるで人生そのものまでもが、どこからか、誰からか、与えてもらえるものであるかのように...
私は、子どもたちに人生を与えてやるつもりはありません。そんなことは僭越だし、そもそもそんなことは不可能だと思っているからです。私には、子どもたちに人生を与えてやれる能力はありません。塾をやっている者、曲がりなりにも教育に関わっている者として私が子どもたちに与えてやれるのは、よい成績や志望校合格そのものではなく、子どもたちそれぞれが自分の目標に近づいていくために必要な条件だと思っています。それは子どもが自分では何も考えず先生の言うことにただ従っていればいつの間にか目標の近くに運ばれているといった、たとえてみれば一種のベルトコンベヤーのようなものとはまったく違います。そこはどうか誤解しないでいただきたい。そういうものがあると信じて盲目的についてこようとする子どもや親御さんにとっては、私のやっていることは不可解かもしれません。目標に近づくために必要なことは、とりあえず自分の脚で歩き出してみること、いろいろな場面でつまずいては起き上がり (ときには泣きながら)、を繰り返すこと、そして何よりも大切なのは、教師も含め他人の言うことに盲目的に従うのではなく自分で考えようとすることです。私ができるのは、子どもたちがこれらのことを心置きなく実行できるための環境作りだと思っています。昔から、手取り足取り何でも親切に教える教師がよい教師であった例しはないのです。そこは分かっていていただきたいと思います。
我が子の成績が伸び悩んでいると悩む親御さんもおられるでしょう。そういう親御さんには、1つのことを問いかけてみたいと思います。それは、親御さんが我が子の成績を数値のデータとしか見ていないところはないか?ということです。数値のデータとだけ見れば、見えるのは成績の上がり下がりだけです。上がれば嬉しいが下がれば悲しい。いや下がったのを見ると怒りさえ湧いてくるということもあるでしょう。でもそういう単純な反応で終わっているとすれば、それは我が子の成長に無関心でいるのに等しいことです。成績がずっと右肩上がりであり続けるということはまずあり得ません (もしそうなったら何かがおかしいと疑ってみるべきでしょう)。まして成績が飛躍的に向上する前には必ず、それまで当たり前に続けてきた生活の否定と新しい生活の作り直しがあるはずで、それは一朝一夕に進むというわけにはいかず、必ずや痛みを伴うつらい経験―それも家族を巻き込んでの―となります。一時的にモチベーションが下がりますし、たとえそうでなくても、頑張っても頑張っても結果が出ないという苦しい不愉快な時期を必ず経験します。本当はそういうときこそ来たるべき飛躍のための必要不可欠な準備期間にして揺籃期なのですが、せっかちな子や親御さんは、そこで早々と逃げ出してしまいます。成長がその先に待っているのに。とても残念なことです。
さて今回も晦日特訓をやり終えて思ったのは、やはり子どもたちには秘められた力があり、無理だとはじめは思っていたことでも実際にやってみるとできるという事実です。 12時間は気が遠くなるほど長いかもしれませんが、子どもたちはちゃんとやり抜きました。途中で疲労と倦怠に襲われた子も多くいたでしょう。当然と思います。毎回そうですが、そういう状態から子どもたちを救い出すようなことは、私はしません。黙って様子を見守るだけです。子どもたちそれぞれにさまざまな内面のドラマがあるはずですが、最後はみんななんとかゴールに辿り着きます。人間とはやればできるものなのです。
アルファ進学スクール水橋校 涌井 秀人