~世界は広い~
いい季節になってきました。よく晴れた日中はもう汗ばむくらいです。時々昼間に塾の広告チラシを配って歩きますが、日によってはもう夏かと思うくらいの暑さです。しばらく歩いているとすっかり汗だくになります。
歩くのは好きです。歩いている間は何かを考えていることもありますし、何も考えていないこともあります。チラシ配りをしていて、抜けるような青空に縁取られた、まだ少し雪が残っている立山連峰のくっきりとした姿に見とれることもあります。広々とした田んぼにたっぷり水が入れられているのを見ると、なんだかちょっと嬉しくなったりします。家々の間を歩きながら、この家にはどんな家族が暮らしているのだろう、と想像力を刺激されたりもします。ここは小さな子どもがいる家だなとか、ここは年配の夫婦だけが暮らす家かなとか。学習塾という仕事柄もありますが、たとえそうでなくても、歩いているといろいろ面白い発見があります。そしてそれらの発見の向こう側には大小さまざまな物語が横たわっているのだなと思うと、今さらながら人の世の幅広さや奥深さに気づかされます。
「世界は広い。僕らが思うよりも遙かに広く、そして深い。」と、ある写真家が書いています*。
*竹沢うるま 写真・文『Walkabout』小学館より
本当にその通りだと思います。そして世界は広いと思うことは、心の自由や柔軟さとつながっていると思います。自分が思うよりも遙かに広い、と思うことは、自分以外の存在への寛容さ、優しさとつながっていると思います。自分は何もかも分かっているという上から目線の優しさでは、すぐに限界に突き当たってしまいます。そんなものは底が知れているし、それは本当の優しさではない、と私は思います。
何か悩み事があるとき、すっきりとした答えがどうしても見つからないことがあります。そんなときには、今の自分にはまだ思いもよらない場所、今の自分がまだその存在を知らない場所、その存在を知るための力を今の自分がまだ十分に備えていない場所に、答えが潜んでいるのかもしれません。少なくともそう考えると、答えはまだ見つからなくても、悩んでいる心がいくらか軽くなるということがあると思います。謙虚になることで心が自由になる、ということだと思います。
ところで話は変わりますが、キザなようですが私は若い頃から詩を読むのがわりと好きで、このところはウィリアム・ブレイク(William Blake)という、18世紀半ばから19世紀初めぐらいにかけて生きたイギリスの詩人に惹かれています。独特の作風の画家としても有名なこの人の詩を、仕事を終えて帰宅した後の時間や、仕事がお休みとなる日曜日などに、少しずつ読んでいます。塾では高校生に英語を教えています。原詩が英語なのに日本語に訳されたものしか読まないのはいかがなものか・・という気持ちもあって、すでにたくさん出ている日本語訳を横に置いて参考にしつつ、大いに英和辞典のお世話になりながら、詩人自身の手になるとても印象的な挿絵つきの原詩を、少しずつ、少しずつ、読み進めています。
気忙しく過ぎていくことが多い毎日の中で、ほんのわずかな時間とはいえ、古い異国の詩を、誰に急かされるのでもなく純粋にマイペースで楽しむという、いかにも悠長なことができる幸せ。それは私にとって、心のオアシスと呼べるような時間です。
詩は、文字がびっしり詰まった散文と違って、とても限られた少ない言葉、また言葉同士の独特なつながりから、読む人が自由気ままにイメージを広げていける融通性があるように思います。少なくとも、私の好きな詩はそうです。気ままにゆっくりマイペースでものを考えたりするのが好きな私には、そういう詩は格好の遊び場を与えてくれます。
詩を読むことは、自分の足であちこち気ままに歩くことと似ているように思います。小さな曲がり角1つを曲がることで、まったく思いがけない景色が目の前に広がることがあるように、小さな言葉1つから、それまで抱いたこともなかった新鮮なイメージが広がることがあります。そういうのが散歩の醍醐味であり、詩を読む醍醐味だと思っています。同じ場所でもただクルマでさっと通り過ぎるよりも歩いたほうが、印象として残るものは圧倒的に多いように、詩の言葉も、日本人の自分にとっては当然読みやすい日本語ですらすら読むよりも、あえて難しい外国語を行きつ戻りつしながら苦労して読むと、印象として残るものはいっそう多くなるように思います。
私の好きなブレイクの言葉に次のようなものがあります。
ひとつぶの砂にも世界を
いちりんの野の花にも天国を見
きみのたなごころに無限を
そしてひとときのうちに永遠をとらえる*
*「無心のまえぶれ」、寿岳文章訳『ブレイク詩集』岩波文庫より
あくせくした日々のペースを少し緩めてみると、目にするものが何だかいつもとは違ったふうに見えてきます。当たり前だと思って普段何気なく横を通り過ぎていたものたちが、何か言いたげな表情をそっとこちらに向けているのに気づいたりします。そういうひとときというのは、忙しい日常生活の中に不意にぽっかりと開いた小さな穴のようなもので、その小さな穴からほんの少しだけ覗いて見えるのは、世界の思いがけない広さであり、深さです。
歩くこと、また詩を読むことは、私にとって、あくせくした日々のペースをほんのいっとき緩めるための儀式のようなものです。そういうときに感じる世界の広さは、とかく凝り固まりがちな心をたちどころに柔軟にし、軽くしてくれます。
こういう経験を、私は、大人になってから知ったように思います。歩くことも、詩を読むことも、子どもの頃に特別に楽しんだ記憶がありません。子どもは自分の意志でどこかへ行くには歩くか自転車に乗るしか術がありませんから、特別な経験と言っても、子どもにとっては常日頃からの当たり前の経験なのかもしれません。歩く楽しみも、詩を読む楽しみも、私にとっては、大人になってから発見したことです。そこではひょっとしたら、子どもだった頃の経験、自分の周りの世界が不思議なものばかりだった頃の経験を、無意識に取り戻そうとしているのかもしれない、とふと思ったりもします。
周りの世界のことをまだ何も知らなかった頃、見るもの聞くもののすべてが新鮮だった頃は、もう遠い遠い・・昔です。でも、その頃の自分と比べて、今の自分、大人の自分は、どんなことを知っていると言えるのだろうか、今の自分は、果たして子どもだった頃の自分に対して誇らしい顔ができるだろうか、とふと考えます。
知識というよりも澱や錆のようなものが心の中に溜まり、それに足を取られて自由に動けない、と思うことが時々あります。まるで見えない檻の中に閉じ込められてしまっているような気分、と言ってもいいかもしれません。歩いたり、詩を読んだりすることは、気持ちをしゃんとさせるために、自分には欠かせないことのようです。とはいえそれも、怠惰な私はつい油断してサボってしまうのですが。 (アルファ進学スクール水橋校 涌井 秀人)