12月。今年もあと少しとなりました。この1年は、皆さんにとってどのようなものだったでしょう。私はと言えば、1年の終わりの今頃はいつもあまりに慌ただしく、来し方をゆっくり振り返ってみるなどというのは、もう何年もないことです。誰もがそうなのかもしれませんが。
思えば年がら年中忙しくしていますが、時には立ち止まって、ゆっくりものを考えてみたいものです。考えるのは未来をよりよいものにしたいから。自分のことを考えるか、子どもたちのことを考えるか、それとも何か他のことを考えるか、といった違いは、私にとってはあまり意味がありません。私はいつもたった1つのことしか考えていない、とも思えます。ところで何かを考えるとか、来し方を振り返ってみるといったことでは、私は、学生時代に知ったドイツのある思想家の言葉を忘れることができません。少し長くなりますが、思い切ってそれを引いてみます。
「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており、天使は、かれが凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのように見える。かれの眼は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼は拡げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、彼が背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものは、〈この〉強風なのだ。
ヴァルター・ベンヤミン『ボードレール 他五篇』野村 修編訳、岩波文庫から
廃墟とは我が子の成績のことか?と思う方がおられましたら、心からお詫びいたします。
カタストローフとは悲劇的な結末、破局のことです。もし歴史の天使というものが存在するとしたら、その目に人間の営みはすべて悲劇として映るだろう、というのが、この文章の言わんとするところです。歴史の天使は、うず高く積み上がった瓦礫の山つまり人間の過去のあらゆる営みのすべてを材料にして、あり得たかもしれないもう1つの世界を作り出そうと苦闘するが、いかんせん進歩という名の強風に邪魔され続けて決してそれを果たすことができない。はなはだ自信がありませんが、精一杯がんばって、私はおよそこんなふうに解釈してみます。
何かを考えたり、来し方を振り返ってみるときに、私は過去を懐かしんだり、それを愛おしんだりすることもありますが、むしろ圧倒的に多いのは、これまでの自分の至らなかったところ、失敗したことに目を向けることです。どんなに忙しくしているときでも、そういう後ろめたい無数のことどもを完全に忘れ去ることはできません。例えば子どもの頃あまり勉強をがんばらなかったこと(苦笑)。これまでいろいろなことを中途半端に投げ出してきたこと(悲)。かつて研究者を目指した頃にがんばって書いた論文にまったく満足していないこと(焦)。これまで付き合ってきた友人や恋人を十分大事にしなかったこと(悔)。そして人には言えないその他の恥ずかしいことの数々(気が遠くなる...)。できるならいつかどこかでそうしたことどもの償いをしたいという気持ちが心の中から完全になくなることはありません。むしろその気持ちがいつでも、私にとって〈今〉を生きる力になっていた気さえします。いやはや生きることはたいへんなこと。仮に誰もがそうなのだとすれば、私は人間というものに、まったくもって同情の念を禁じることができません。ただただ合掌。
ところで話は変わりますが、昔若かった頃に一時期よく聴いていたマーラーの交響曲のCDを、何を思ったかこの頃また引っぱり出してきてよく聴いています。マーラーの音楽に強く惹かれていた頃は、マーラーブームとか言われ、地元にいても国内外のさまざまなオーケストラによる興味深い実演に接することができました。私は当時長い間苦しめられていた学位論文からようやく解放されて間もなくというときに待望の実演に接しました。大げさかもしれませんが長年の艱難辛苦がようやく終わった安堵もあってか、迫力満点の演奏を聴きながら涙がとめどなくあふれ出してきて、隣に座った友人たちに気づかれるのではないかと困り果てながら、どうすることもできませんでした。
青年時代の終わりのほろ苦くも懐かしい思い出。マーラーの音楽というのは、他に比べられるもののないくらい、激しく心を掻き乱し、揺り動かします。それは聴く人を安穏とさせるものでは決してなく、ともするとそういう気分に傾こうとする者にむしろ思い切り冷や水を浴びせかけ、頭を思い切り強くぶん殴るようなところがあります。それが、時にはすごく鬱陶しく迷惑に感じられ、心底うんざりさせられる元にもなるのですが、しかしこちらの気持ちとうまくシンクロしたときには、それはもう比類のない感動を与えてくれます。心の奥で眠っていたものが呼び覚まされると言いますか。
ベンヤミンもマーラーも、世間でさも自分は絶対正しいと言わんばかりの涼しい顔をして当たり前にまかり通っている誤った常識だとか、決まり切ったことに安住しようとする硬直した制度だとか、伝統だとかに対するきわめて厳しい批判精神を持っていました。そういった澄まし顔をしたものらの陰に、実際はどれほど多くの失敗や、挫折や、ゆゆしき不正や、痛ましい犠牲が、隠されていることか。それを容赦なく暴き、しかもただ暴くだけではなく、見渡す限りの瓦礫の山の中から本当の宝を見つけ出そうと苦心惨憺しているところに、大いに共感し、また心から尊敬します。まずは失敗を認めること。失敗を忘れ去るのではなく、失敗からよく学ぶこと。そこに人間の未来がかかっている―。失敗を忘れ、ただがむしゃらに成功を追い求めるだけの〈前向き〉の行き方には思いもよらない豊かな可能性が、その一見〈後ろ向き〉に見える行き方には潜んでいるような気がします。そういうものの見方には賛同できないと思われる方もおられるでしょうけれど。
さてしかし、現実はそう甘くはありません。ベンヤミンの歴史の天使は、進歩あるいは世の移り行きという名の決して止むことのない頑固な強風に吹きさらわれ、事態を少しでもよくしようとしながらなすすべがないようです。子どもたちの置かれた現実にからめて言えば、テストに次ぐテストという止むことのない頑固な強風に邪魔をされて、学力を基礎からちゃんと作り直すチャンスをみすみす取り逃がさざるを得ない?日々です。高校生はと言うと、常に今の自分の身の丈に合わない難しい大量の宿題を課され続けていて、ついに地に足がつくということがありません。子どもたちの学力を育てるはずの学校が、硬直した制度のために、かえって子どもたちの学力を奪い続けているかのようです。現在の学校制度のすべては失敗であり、まさに日々休みなく廃墟の上に廃墟を積み重ねているだけ、とさえ言いたくなります。
社会というものは容易に変わりません。誰もがこれではいけないと思っていながら、梃子でも動こうとしない。まさにどうしようもないと思えてくるのが社会というものです。でも私たちは、と私は思うのです。失敗は失敗と認めた上で、その失敗のまっただ中を、これまでも、これからも、おそらく進んでいく他ない私たちは、目の前で起きていることによく目を凝らし、できるだけ濁りのない目でもって事態をよく見 (よく感じ取り)、前例に捕らわれることなく、権威に寄りかかることなく、それぞれの持ち場で、自分自身の良心に従って進んでいくしかないと。現代はまさしく手すりなき時代。大人が子どもに教えるべきは、まずはそこではないかと思います。
アルファ進学スクール水橋校 涌井 秀人