勤務の予備校へ行く途中に「葬儀場建設反対」の看板がある。
葬儀場ができるというので、高岡で富山でも、問題になっていたのを思い出した。
確かに町内に葬儀場を誘致する人もいないだろうが、
そこまで忌み嫌うのもどうかと思う。
多分、土地の評価額が落ちるという理由が本音だと思うが、
現代の「死」に対する考えも良く表れていると思う。
「死」と直面するのは避けたい、「死」を子供に見せたくないという感情だろう。
《塾では鉛筆を使い、シャーペンは禁止》というお触れを出して、9ヶ月。
全員揃って鉛筆を使っている「優秀」クラスもあるし、
放っておくと、いつの間にか、シャーペンになっている生徒もいます。
モノは使えばなくなる、減る、ということの実感が子供の中に消えつつあり、
実態のあるモノは減ったり、消えたり、変形するという
当たり前の感触が消えつつあります。
コンピューター・ゲームの世界のように、命に果てはなく、
電源を切って、つければ、命はそこに、また現れるというのは幻です。
命は一つ、人は必ず死にます。
「死」は現実であり、「死」を見えなくしていく社会(今がそうです)は虚構です。
人間としての感性を持ち続けるのなら、
「死を悲しむ」特権を失ってはならないと思います。
シャーペンだけでなく、子供の身の回りは、
「減らないもの」(死なないモノ)でいっぱいなんです。
「何で鉛筆・・・」といわずに鉛筆から始めましょう。
それに、鉛筆削るのって楽しいですよ。
特に、ナイフを使うと、その時の気持ちや性格が削り方に現れたり、
削り方を工夫したり、少なくとも頭は使いますよね。
それだけでも、状況に流されている子ども達には、
刺激のある訓練ではないでしょうか。
みんな、自分だけのかっこいい削り方でMY鉛筆だ。