この問いかけに頭を悩ますご両親は多いだろう。
子供たちにとってもやはり深刻な悩みだろう。
「生きる」ことと「生活する」ことが一致しない現代だからこのような悩みが生じるのだろう。
「生きる」ことと「生活する」ことが一致していた時代であれば、生きるために、知識が必要であった。
大昔であれば、獣から身を守るために、大人は子供に武器の作り方を教える。
子供は、真剣に大人の話を聞く、さもなければ、獣に襲われ死んでしまう。
ここに「勉強」に対する違和感はない。
勉強しなければ生きていけないからだ。
今、分かり易くするために、大昔という極論を使ったが、そんな時代に遡らなくても、私たち、今の大人が子供の頃でもそうだった。
例えば台風が来るとなると、一家総出で、木を切って、窓ガラスに打ち付けた。
この時、木を切るときにふっと技術家庭科の鋸の刃の使い分けなんかを思い出す。
子供だから力がないから時間がかかるけど、目の細かいで切る。と言う具合である。
時代が進んで、台風が来ても、台風ぐらいで壊れる窓はなくなり、わざわざ自分で板を切る必要がなくなってきた。
すると「作る」、「直す」という「体で生きる」事も必要なくなってくる。
もはや、工夫して「生きる」ことは必要なくなり、考えなくても「生活」ならできる。結局、生きるために学習する必要はなくなる。
また、大人は子供に「いい学歴を得ないといい生活ができない」と勉強を勧める。
これはしばらくは説得力があったし、今も部分的には通用する。
しかし、こどもは、理屈で納得できても、学歴のためというと、ますます、勉強という物がただの手段に思えてくる。
手段にすぎないとなると、どんな物もその本質的な価値を消失する。
食事だってそうでしょう。
栄養補給の手段としか思わなければ、食事なんて味気ないものだ。カロリーメイトで十分だ。
ところが、この「いい学歴を得ないといい生活ができない」という論理が通用しにくくなってきている。
モノが豊かになり、たくさんの若者が「仕事に就かなくても生活できる」時代になってしまったのである。
もう「生活のために勉強する」というリアリティはなくなった。勉強に意味を見いだせなくなってきたのは当然である。
ここでの私の定義を改めて確認すると、
「生きる」というのは、生身の体で接し、予期せぬ困難に打ち勝って生き残ること、「生活する」とは命を長らえることです。
その意味で、やはり現代は「生きる」ことと「生活する」事が一致しない時代だと感じます。
勉強の価値、意味がなくなってきている豊かな時代、子ども達が「なんで勉強せんとあかんのか」と問うのは自然の流れなのだ。
しかし、指一本であらゆる事ができるこの科学技術の結実した社会も、
あの東日本大震災で分かるように、一瞬にして、我が身一つが生きるための頼りとなる状況に陥る危険をはらんでいる。
だからこそ、私たち親が、勉強が生きるために本当に必要なものであることを根気強く言い続ける必要がある。
登山やキャンプのような非日常の場を「生きる」事の模擬体験の場として親子が経験するのは一つの方法かも知れないが、そこまでしなくても普段の生活の場面、場面に勉強をからませていくことでも十分だろう。
現在、夏期講習中。
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:7/23(木)~8/6(木) ※放課後のみの授業です。
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